Masuk火曜日の昼休み、美緒が図書室へ行くと言ったので、私は食べ終えた弁当箱を片づけながら、すぐに手を挙げた。
「私も行く。国語の課題で使えそうな本、まだ見つけてないんだ」「言葉について、自分でテーマを決めるやつ? ひまりなら、言い返したあとで後悔しない方法とか調べたら」「それ、研究結果が出たら美緒にも教えるね」「私は言い返す前に、だいたい後悔するかどうか考えるから」 涼しい顔で言われ、私は筆箱をつかんだ。私だって考えることはある。ただ、考え終わる前に口が仕事を始めてしまうだけで、そのあたりの連携に少々問題があるのだ。 廊下には昼食を終えた生徒たちの声が響いていたが、図書室の扉を開けると、足音まで自然に小さくなった。窓際に座った人の影が長机へ落ち、本をめくる音がところどころから聞こえてくる。私は持ってきたノートを胸に抱え直し、美緒について書架の間へ入った。「私は言葉の由来にした。短くまとめられそうだし、調べてる途中で面白いものも見つかりそうだから」「その、課題と自分の楽しみを一度に済ませるところ月曜日の放課後、私は職員室へ向かう廊下で、持っている資料の角を三度揃えた。 もう十分に揃っている。それは分かっていたけれど、ほかに手の使い道がなかった。隣では瀬名先輩が歩きながら自分の説明する箇所を確かめ、前を行く九条先輩は、私が紙を触る音に気づいたように振り向いた。「朝倉さん、そのままでは角だけ柔らかくなるわよ」「緊張してるの、分かりますか」「資料を持ち替えるたびに、こっちまで背筋が伸びるくらいには」 私は慌てて両腕を下ろした。すると、今度は紙が膝に当たる。落ち着いた人間は、歩くときに書類をどこへ置いているのだろう。昨日までは何も考えずにできていたはずなのに、今日はそんなことまで分からなくなっていた。 御影先輩が歩調を緩め、私の横へ並んだ。「書いてある順に、全部読み上げる必要はない。先生にも資料は渡してある」「はい。分かっています。変更したところと、実際に運営して分かったことを中心に……」 そこまで言って、私は黙った。今ここで説明を始めたら、職員室へ着く前に本番が一回終わってしまう。 瀬名先輩が資料を閉じ、私のほうへ少し体を向けた。「もし言葉が詰まったら、紙を見ればいいよ。俺も見るし。何も見ずに話せた人が優勝する会じゃないから」「優勝したら、窓口を続けられるならいいんですけど」「それだと、怜央が長い説明を暗記してきそうだな」「長くする理由がないだろう」 御影先輩がすぐに返したので、私は小さく笑った。喉の奥に固まっていたものが、少しだけ下へ落ちた気がした。 職員室へ入ると、印刷したばかりの紙の匂いと、奥で鳴っている電話の音がした。担当の先生は脇の打ち合わせ用の机で待っていて、資料にはすでに何枚か付箋が貼られている。 読んでもらえている。そのことがありがたい一方で、どこに何を書かれたのか、座る前から気になった。「揃ったね。では、座って。二週間、お疲れさまでした」 先生に促され、私たちは椅子を引いた。御影先輩が最初に報告の流れを伝え、それから私へ目を向ける。 ここからは、私の説明するところだった。
土曜日の十一時半、台所へ下りると、怜央さんが食パンの袋に書かれた表示を読んでいた。 テーブルにはハムとチーズが並び、まな板も出ている。約束どおり早めに来てくれたのはありがたい。ただ、パンの袋を持つ姿が、提出された書類に不備がないか調べているときと少し似ていた。「お待たせ。何か気になること、書いてあった?」「いや。何枚使うかと思って。二人で四枚なら、残りは明日の朝に使えるな」「うん、それでいいよ。そんなに緊張しなくても、パンは途中で予定を変えたりしないから」「俺が変える可能性はあるだろう。足りなくなってから気づくより、先に見ておいたほうがいい」 もっともだったので、私は笑いながら手を洗った。怜央さんが慎重なのを面白がって、適当に進めればいいと言いすぎるのもよくない。今日は私のほうが慣れているだけで、学校では逆のことがいくらでもある。 冷蔵庫からレタスとミニトマトを出し、付け合わせはこれにしようと伝えた。サンドイッチはフライパンで焼くつもりだった。専用の道具がなくてもできるし、ハムとチーズなら難しい下ごしらえもいらない。「じゃあ、私が野菜を洗うから、パンにバターを薄く塗ってもらっていい? 焼く側だけで大丈夫」「焼く側というのは、外になる面だな」「そうそう。そこが香ばしくなるから」 答えながら水を出すと、隣で袋を開ける音がした。レタスの葉を一枚ずつ剥がし、冷たい水の中へくぐらせる。お母さんは店、和臣さんは仕事へ出ていて、台所には私たちの動く音しかなかった。 洗った野菜の水気を切り、振り向くと、怜央さんはまだ一枚目のパンと向き合っていた。「……何か、難しいところあった?」「薄くというのが、どの程度か分からない。ここだけ厚くなったから、均してる」 見ると、確かに端まで丁寧に塗られていた。ただ、均一にしようとするたびに柔らかいパンの表面が引っ張られ、中央が少しへこんでいる。「全部同じ厚さじゃなくても大丈夫だよ。穴が開く前に、そのくらいで」「そういう止め方をされると、もう失敗している気がするんだが」「まだパンの範囲に収まってるから、平
金曜日の放課後、生徒会室の扉を開けると、御影先輩がいつもの席で書類を読んでいた。昨日そこに座っていた瀬名先輩は向かい側に戻り、何かを説明しながら、自分の手元の紙を指している。「そこ、俺の字じゃなくて朝倉さんの記録。俺の字が急に読みやすくなったと思ったなら、残念だけど訂正しておく」「誰も間違えてない。変更した理由まで書いてあるから分かりやすい、と言ったんだ」「それは俺も聞きたい評価だったな」 机へ鞄を置く前に、私は笑ってしまった。御影先輩が顔を上げ、挨拶のあとで、読んでいた記録を軽く持ち上げる。「昨日の分、確認した。追加で聞かないと分からないところはなかった」「よかったです。説明したくなっても、今日は我慢しようと思っていました」「必要になったら聞く。今は大丈夫だ」 それだけのやり取りなのに、椅子を引く手が少し軽くなった。私の書いたものが、私のいないところでも役に立った。それを彼の口から聞けたことも嬉しくて、私は筆箱を出すついでに、緩んだ口元を一度引き締めた。 今日は、二週間の試験運用の最終日だった。 窓から入る光も、廊下を行き交う声も、いつもの金曜日と変わらない。派手な終わりの音が鳴るわけではなく、今日も四時になれば画面を開き、決めてある順番で確認を始める。それでも、机の中央に置かれた振り返り用の資料を見ると、とうとうここまで来たのだと思った。 再開する前は、とにかく窓口を開けることばかり考えていた。止まってしまったものを、自分の手へ戻したかった。けれど、今、机を囲んでいる四人を見ると、戻ってきたものは以前と同じ形ではない。 九条先輩が私の前へ用紙を置いた。「今日の対応を優先して、残った時間で各自の振り返りをまとめましょう。来週、先生に見ていただくものだから、きれいに見せるために困ったことを省かないでね」「はい。……先に言われると、ちょっと緊張しますね」「朝倉さんだけに言ったわけではないわ。私も、自分が確認に手間取った箇所を、危うく忘れたことにするところだったから」 彼女はそう言いながら、付箋のついた自分の記録を開いた。いつも迷いなく進めているよ
木曜日の放課後、生徒会室へ入ると、御影先輩がいつも使っている席に、瀬名先輩が座っていた。 別に指定席というわけではない。机にも椅子にも名前は書かれていないし、誰が座ったところで学校の備品は平等に人を支える。それなのに、私は扉を開けた姿勢のまま、ほんの少し動きを止めてしまった。「お疲れさまです。……今日は、そこなんですね」「こっちのほうが三人で画面を見やすいかなと思って。会長の椅子、座ったら急に字がきれいになったりしないか期待したんだけど、今のところ変化なし」 瀬名先輩が持ち上げたメモには、勢いのよい文字が並んでいた。読めないほどではないものの、書いた本人も急いでいたことだけは、誰にでも伝わる。 向かいで書類を揃えていた九条先輩が、顔を上げずに言った。「ゆっくり書けばいいのよ。椅子に頼る前に、できることがあるでしょう」「そういう地道な助言を、ここに座ってから二回ももらってる。怜央、毎日こんな気分なのかな」「怜央くんは、メモの字については言われていないわ」 私は笑いながら鞄を下ろした。昨日まで気になっていた空席は、実際に来てみると空いてさえいなかった。三人で働きやすいように並び方を変えただけで、部屋はもう今日の仕事を始める準備ができている。 筆箱とノートを出したところで、九条先輩が一枚の用紙を差し出した。「利用案内、先生から確認が戻ってきたわ。内容はこれでよいそうよ。公開前に、昨日の修正案と違うところがないか、三人で照合しましょう」「もう見ていただけたんですね。ありがとうございます」 紙を受け取り、私は昨日書き込んだ変更理由の記録を隣へ置いた。美緒が分からないと言ったところも、残してほしいと言った一文も、ちゃんと入っている。先生の確認を通ったからといって、それだけで使いやすさが保証されるわけではないけれど、少なくとも昨日の昼休みより、読み手が立ち止まる場所は減っていた。 四時になると、まず届いている相談と対応状況を確認した。それぞれの担当を確かめ、私は返答の下書きを読み直す。途中、言い切り方に迷う箇所があって、口を開きかけたまま、いつもの方向を見てしまった。
水曜日の昼休み、美緒は私が差し出した原稿を受け取る前に、机の上のプリンを自分の側へ寄せた。「先に言っておくけど、これを食べ終わるまでは待ってね。真剣な話をしている途中で、ひまりに見られながら最後の一口をすくうの、落ち着かないから」「そこまで見ないよ。私だって、昼休み全部を案内文に捧げてほしいわけじゃないし」「今、原稿を持ったまま待ってる顔が、かなり捧げてほしそうなんだけど」 指摘されて、私は紙を膝へ下ろした。急がせるつもりはなかったのに、準備が整っていることを全身で知らせてしまっていたらしい。親友に頼み事をするときくらい、もう少し余裕を持ちたい。 美緒が最後の一口を食べ、空の容器を片づけてから、私は『放課後レター』の利用案内を机に置いた。持ってきたのは公開するための文章だけで、相談の内容も、管理用の記録も入っていない。昨日、生徒会で確認した範囲を、読みやすいよう一枚にまとめたものだった。「言い回しを直してほしいわけじゃなくて、初めて読んだ人が、どこで迷うか知りたいの。変だと思ったところは、そのまま言ってくれていいから」「了解。ただ、私、こういうのを読む専門家じゃないよ。分からなかったら、本当に分からないって言うだけになるけど」「それが助かるんだって。私たち、もう内容を知ってるから、書いてないことまで分かったつもりで読んじゃうし」 美緒は頷き、筆箱からシャープペンを取り出した。教室の後ろでは、誰かが購買のパンを買い損ねた話をしている。窓際の席では椅子が引かれ、友達同士が机を寄せていた。いつもの昼休みの音の中で、美緒が紙へ目を落とすと、そこだけ急に静かになった気がした。 私は待つ側なのだから、黙っていればいい。 そう決めていたのに、美緒の指が一か所で止まるたび、説明が喉まで上がってきた。そこは下の段落にも書いてある。先に最後まで読めば分かる。そんな言葉を飲み込みながら、自分の弁当包みを畳み直す。もう十分きれいなのに、角だけが何度も揃えられた。「ひまり、ここ。返事を待っている間に、書き忘れたことを思い出したら、もう一回送っていいの?」「追加はできるよ。同じ相談の続きだって分かるように――」「うん。それ
火曜日の昼休み、美緒が図書室へ行くと言ったので、私は食べ終えた弁当箱を片づけながら、すぐに手を挙げた。「私も行く。国語の課題で使えそうな本、まだ見つけてないんだ」「言葉について、自分でテーマを決めるやつ? ひまりなら、言い返したあとで後悔しない方法とか調べたら」「それ、研究結果が出たら美緒にも教えるね」「私は言い返す前に、だいたい後悔するかどうか考えるから」 涼しい顔で言われ、私は筆箱をつかんだ。私だって考えることはある。ただ、考え終わる前に口が仕事を始めてしまうだけで、そのあたりの連携に少々問題があるのだ。 廊下には昼食を終えた生徒たちの声が響いていたが、図書室の扉を開けると、足音まで自然に小さくなった。窓際に座った人の影が長机へ落ち、本をめくる音がところどころから聞こえてくる。私は持ってきたノートを胸に抱え直し、美緒について書架の間へ入った。「私は言葉の由来にした。短くまとめられそうだし、調べてる途中で面白いものも見つかりそうだから」「その、課題と自分の楽しみを一度に済ませるところ、見習いたい」「ひまりは?」「頼み方かな。同じお願いでも、言い方によって断りやすかったり、断りにくかったりするでしょ。あれが気になって」 美緒は背表紙へ伸ばした指を止め、私を見た。「それ、面白そう。でも、断れない頼み方の研究にはしないでね。今後、私がお菓子を分ける量に影響するから」「そっちは実践する前に見破られると思う」 声を落として笑い、美緒と別の棚を探した。彼女は目当ての本を見つけるのが早く、二冊の目次を比べてから、そのうちの一冊を抱えた。貸出手続きをしてくると言われ、私は頷いて、もう少し背表紙を眺める。 ところが、丁寧な言葉についての本は見つかっても、読みたいところがなかなか見つからない。正しい敬語の使い方を知りたいわけではなく、丁寧に頼まれているのに断りづらいのはどうしてか、というところから考えたかった。 二冊ほど持って閲覧席へ向かったとき、窓から二つ目の長机で、御影先輩が問題集を開いているのが見えた。 昨日、私と一緒に写真立てを選んでいた人と同じなのに、制服で机に向かっ